『論衡』と麒麟
『論衡』は後漢時代の思想書で、世間の迷信に鋭く切り込んだ痛快な本だが、あくまでその当時のものなので、麒麟など実在するのが前提で語られている。以下は『論衡』麒麟についての抜き書き。
漢の武帝のころ、白い麒麟を捕まえたところ、一本角の先に肉をつけており、一足ごとに五つの蹄があった。謁者という役についている終軍という男に調べさせると「野獣でありながら一本角というのは天下がひとつになるということです」と読み解いた。
※上記の話は『漢書』の終軍伝にもあるそうだ。
春秋経に、死んだ麒麟を見て孔子が「なぜ出てきたのか」と言って泣いたとある。儒者たちは「聖人である孔先生は王となれず、徳のない者が魯の王となっているにもかかわらず、麒麟が迷い出たのを見て先生は嘆いているのだ」と解釈した。孔子がそう嘆いたから、麒麟は聖王のために現れるものだとわかると。
しかし麒麟は偶然出てきただけだ。もし麒麟が聖王のために現れるのなら、聖王のいなかった時代に出てくるはずがない。孔子はただ、捕らえられて殺された麒麟を見て泣いただけである。
著者の王充実は、麒麟という生き物を「泰平の世に出てくるもの」と解釈しているようだ。泰平の世は聖王によってもたらされるので世間では麒麟が聖王の出現とともに現れると信じている。しかし、愚かな魯王の時代に現れたということは、必ずしも聖王のもとに現れるのではなくて世の中が泰平なので出てきたのだろうと言うわけである。