一位が巨泉、二位は芥川也寸志(なんの順位でしょう?)
六八年も実にいろいろなことが起こっている。のちにボクの代名詞のようになった「ハッパフミフミ」のCMもこの年にできた。テレビ・タレントとして成功して以来、ボクの所にもCMの話はいくつか来たが、CMとしてヒットしたものはなかった。理由はボクに似合う商品が少ないということであったろう。まったく非家庭的なプレイボーイとして売り出したボクに、家庭で使うものの宣伝はマッチしない。
しかし若者の間では人気は急上昇していた。この年の「大学・高校生から見た司会者ベストテン」というものを見ると、なんと第一位がボクで、以下(2)芥川也寸志(3)三橋達也(4)玉置宏、前田武彦(6)黛敏郎(7)小島正雄(8)ロイ・ジェームス(9)宮田輝、高橋圭三、三木鮎郎となっている。
- 作者: 大橋巨泉
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/03
- メディア: 単行本
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この結果は極めて意外です。って、さすがに68年当時の記憶はこのオバチャンにもないのでございますけれど、巨泉やマエタケさんが入ってるのはいいとして、なぜ司会者の人気ベストテンで芥川也寸志が二位なのかと。
芥川也寸志と黛敏郎は作曲家です。しかも、クラシック畑の(映画音楽とかもやってましたけどね)。なんで彼らが司会者ベストテンに入っているのでしょう。黛氏は「題名のない音楽会」がこの当時すでに放映されていたので理解できます。芥川也寸志は、彼がメイン司会者でやってた番組というとNHKの「音楽の広場」というのくらいしか思いつきません。調べてみると
「音楽の広場」は1977年開始らしいんですよ。巨泉が書いてる68年の9年もあとじゃないですか!
ってことは、それ以前に芥川也寸志がやってた番組(あるいはテレビではなくラジオだったかもしれない)ってのがあって、ナウなヤング(たぶん68年当時にはまだそういうフレーズはなかったとおもふ*1)に受け入れられていたってことなのですよね?
と、思って調べたら、TBSラジオで「100万人の音楽」という番組を1967年から亡くなる前の年までやっていたそうです。不勉強でラジオの方はとんと知りませんでした。黒柳徹子とやっていた「音楽の広場」がとても好きだったので、知っていたら聞いていたと思うのですが。今更ながらに残念です。
[その他ぬきがき]
ハッパフミフミ誕生秘話
- パイロット万年筆はボールペンに食われて会社が危なかった。800人もの社員の首を切らなきゃならないほどだった。
- 人気司会者の巨泉をCMに起用し、人気回復の賭けに出た。
- しかし、用意された台本は退屈なものだった。
- 台本通りの撮影を済ませたあとに、巨泉がアドリブでもう一本取ることを申し出る。
ホリゾントに譜面台とスツールがあれば良いと言った。ただしアフレコはまったく不可能だから、同時録音にしてくれと頼んだ。カメラはボクのバスト・ショットだけ、何を言うか解らないからねと言った。
「みじかびの、きゃぷりてぃとれば すぎちょびれ、すぎかきすらの、はっぱふみふみ」と切って、「解るね」と言って笑った。スタジオは狐につままれたようであったが、台本のより面白いと言う人が多かった。パイロットの人は、両方もって帰って会社で検討したうえで、どれを採用するか決めさせてください、と言った。ボクはお任せしますと言ってスタジオを出たが、近藤(巨泉のマネージャー)には「台本どおりのを出したら会社はつぶれるよ」と言った。
- もちろん「ハッパフミフミ」が採用される。
- CMは大ヒットして会社は持ち直す。800人の解雇はなくなった。
- 巨泉はパイロットの社主から感謝パーティーに招待され、感謝状と記念品をもらう。
- 労働組合の委員長までもが壇上にあがり、巨泉に謝辞をのべた。
- なお、ハッパフミフミのCMで有名になった万年筆の商品名は「パイロット・エリートS」
参院選の出馬を依頼されて断る(73年?)
- 日本テレビの社長に呼び出され「おめぇは、オレが考えていたよりずっと偉えんだってな。角の野郎(田中角栄のこと)が言うんだ。おめえが出れば三百万票取れるって」と参院選に出るように言われる。
- 政治家になったらテレビもやれない、競馬や麻雀の解説もできないから金銭的にも困るといって固辞する。
- 後日ふたたび呼び出され、テレビは社長である自分が出ていいと言うから問題ない、金銭面は角の野郎が二億でも三億でも税金のつかない金を好きなだけ用意するから出ろと言われる。
- 巨泉は、社長が許しても世間が許さないだろうからと辞退。テレビの仕事を降板させられても出られないと断ると、さすがに「角の野郎」も納得し、選挙に出なくてよくなったが、他の党からは絶対に出ないように約束させられた。
ボクはのちに、ロッキード事件が起こったとき、すぐにこの話を思い出した。そして角さんが「金を一銭も私したことはない(私物化したことはない)」と言ったときも、彼の感覚ではそうだったのだろうと思った。自分のために使ったのでなく、国や党のために使うという感覚からは、それが不法であるという認識が消しとんでいたのだろう。
田中角栄の金銭感覚については、別の本(タイトルも著者も忘れたが、田中眞紀子のことを書いた本だったような気がする)にも似たような話が出てくる。政治活動のために集めたダークな金を、足が付かないように洗ったほうがいいとすすめられ、角栄は必要ないと断ったというのだ。正確な表現は忘れたけれど、金に汚いも綺麗もなく、何かあったら自分が全部かぶるから小細工はいらないみたいなことを言ったと。たぶん、彼としては本当に私物化してるつもりはなかったんじゃないだろうか。当時、ビジネス系の名もない雑誌の若い記者だった人が、角栄にインタビューをとりに行ったら「これで飲みに行きなさい」とお小遣いをくれたというのも聞いたことがある。二度目に行くとちゃんと顔や名前を覚えていたとも。小遣いを握らせて良い記事を書いてもらおうだなんて今から見るとそうとう汚いが、彼にとっては「笑顔で挨拶する」のと同じような感覚だったのかもしれない。
- 1974年、矢追純一が超能力を持つと言うユダヤ人青年を連れてくる。
- 矢追は彼の能力に夢中だったが、現実主義者の巨泉は懐疑的だった。しかし番組を面白くするために驚くものには大きく反応してみせた。
- (11PMで?)話題になったので、「木曜スペシャル」でも取り上げ、矢追に依頼されて巨泉が司会をつとめる。話題になり何度も特集が組まれた。
- 宇宙人を呼ぶ企画では、日テレの寒い屋上で、若き日の徳光和夫が見張り役をした。
- 当時はスポーツアナウンサーのほうがもてはやされ、芸能系の徳光は目立たない局アナだった。
- 徳光は勉強と称して11PMのスタジオに遊びに来ることが多く、巨泉がとてもかわいがっていた。
- 後に「ウルルン滞在記」で巨泉がゲスト出演した時、徳光は「巨泉さんが出てくれるなんて夢のよう」と言っている。
- スプーン曲げは、自分もできるという日本人の少年が現れ、新しい展開へ*2。
- 超能力少年は週刊朝日にインチキをあばかれる。番組司会者の巨泉もそれなりに中傷を受けた。
- のちにアメリカの手品師がユリ・ゲラーのトリックをあばき始めるが*3、巨泉は彼の番組の司会もつとめている。
- 巨泉最後のレギュラー番組「ギミア・ぶれいく」でも超能力をたびたび取り上げた*4。
- 巨泉は古代人が持っている不思議な力を否定しておらず「ただこうしたものは、意識的に使えるものではないと思う。それを常に見せようとすれば、どうしてもインチキを使うことになる」と述べている。
超能力に関する著書で有名な中岡俊哉の本だったと思うが、大橋巨泉は超能力者だろう、というようなことが書いてあるのを読んだことがある。若い頃、生活に困り、競馬やら麻雀やらでお金を増やして暮らしていたことがあり「不思議と負ける気がしなかった」と本人が言っていたと、そのような内容だった。
クイズダービー
クイズダービー発想のもとはカナダのテレビ番組だった。学者風・グラマー美人・スポーツマンタイプなどの回答者にクイズを解かせる。問題の内容により倍率がつく。学術問題なら学者は2倍、グラマー美人は60倍というように。問題を当てれば倍率どおりの賞金がもらえるが、もらうのは正解を答えた回答者本人。たまに学術問題をグラマー美人がといて番組が盛り上がるが、クイズというよりバラエティーだったらしく、問題の一部は回答者に教えてあると、わざわざテロップが流れていたそうだ。巨泉によれば「翌年は別の番組になっていたから、半年くらいで消えたのだろう」という。
これをヤラセなしで日本向けにしたら面白いのではないか、というのが始まりで、ヤラセや八百長があっては面白くもなんともないので、回答者と賞金をゲットする人を分けてしまった。回答者は難問正解しても決められたギャラしかもらえない。だから正解率について八百長をする必要がない。
番組開始当時は回答者席が六枠あった。回答者のほかに「オッズマン」として藤村俊二が出ていた。藤村と巨泉で倍率を決めていたのである。また、ゲスト回答者の関係者も出演していた。第一回のゲストは植木等だったので、関係者としてハナ肇も出演していた。なんと豪華な番組だろう。わたし(chinjuh)はこの当時、クイズダービーを見た記憶がないが、想像するにゲストがこんな大物だと(植木もハナも当時大スターだったはず)、クイズよりトークに偏ってしまい、クイズダービーらしいテンポはなかったのではないかと想像する。近年TBSチャンネルで再放送があったのに、見逃してしまい、非常に残念だ。この本を先に読んでいたらビデオにとってでも見たのに。
実際、あまり面白くなかったようで、視聴率は4.4%にまで落ち込み、TBSでは打ち切りを考えていたそうだ。しかし、スポンサーのロート製薬の副社長(後に会長になる)山田安邦氏が「頭の体操」から八年もつきあっている巨泉を切ることを承知しなかった。
そこで、回答者を五人にして、オッズは巨泉の独断と偏見で決めることにし、かわりに問題作家を十人に増やし、番組構成を単純化してクイズそのもののクオリティをあげ、のちの怪物番組に仕立て上げた。このときに起用された問題作家の中には景山民夫もいたという。
言われてみればクイズダービーは問題がふるっていた。特に三択問題は印象深い。正解よりもハズレの選択肢を覚えていたりする。どこだかの大金持ちが自分の財産を変わった方法で隠したが、次のうち正解はどれ、という問題など、選択肢のひとつに「ダイヤモンドに変えて自分の体に埋め込んだ」というのがあった。もちろん元ネタは手塚治虫の「ブラック・ジャック」のエピソードで「灰とダイヤモンド」である。わたしは、この問題を聞いて、正解は絶対にダイヤだと思った。手塚がその手の変わったニュースをヒントに漫画を書いたのだろうと信じたのだ。でも、ハズレだった。正解はもっとツマラナイ内容だったと思う。よくは覚えていない(犬小屋に隠したとかだったかもしれないが、そのネタも後年の手塚の漫画にあるので勘違いかもしれない)。
クイズダービーの問題は、単純に知識を問うものばかりではなかったので、テレビの前で一緒に考えるのが楽しかった。こういってはなんだけど、近年よくある漢字の読みだの言葉遣いが正しいの間違ってるだのという知ったかぶりクイズは鼻について見ていられない。また、脳トレ系のクイズにしても、キャアキャアさわぎまくる出演者ばかり映すので、今の映像もういちど見せてよ、と思っても流れずに正解へ行ってしまったりする。あれはクイズ番組ではない。芸能人ばかり楽しそうに遊んでいる番組はもう見たくないのでテレビ局関係者はすこし考えてほしいと思う。
クイズダービーの回答者は、篠沢教授・はらたいら・竹下景子のイメージが強く、ずっとそうだと思いこんでいたが、この本を読むと篠沢教授のあとに北野大が座っていたのを思い出した。わたしは篠沢教授がけっこう好きだったので、変わってしまったのが残念だった。本業が忙しくなったせいかと思っていたら、どうもテレビ局側がそろそろ交代させては、と言ってきたらしい。巨泉自身も、正解を「下品」と称する教授のスタイルを好まず、回答者交代に賛成したとある。
ハッキリ書かれてはいないが、どうも巨泉と教授はそれほど仲良くなかったのではないか。巨泉が言うには、篠沢教授は巨泉のことをアメリカかぶれだと思いこんでいた、とある。そういえば、近年になりワイドショーなどで篠沢教授がひっぱり出されて語っているのを見ると(紀子さま御懐妊などの皇室関係が多いような気がするが)、クイズダービーで見せていたのとは違い、どこか鼻につくものを感じるので、番組で面白く見えていたのは巨泉のリードがあったればこそ、なのかもしれない。
それはともかく、はらたいらの前には黒鉄ヒロシが座っていたとあり、初期の頃をしらないはずなのに黒鉄が出ていたことはよく覚えている。そういえば「頭の体操」も見ていたはずなので、初期の番組スタイルを覚えていないだけで実際には見ていたのかもしれない。
またもや選挙に担ぎ出されそうになる(でも出ない)
1977年、革新自由連合という政党(?)が旗揚げされた。自民党政権を倒して新しい日本をつくろうという文化人の集まりだった。ここに大橋巨泉も名を連ねる。大島渚、田原総一朗、野坂昭如、青島幸夫、中山千夏……と、ここらへんはテレビで痛烈な発言をしたり、実際に政治活動をしたことのある人たちなので理解はできるんだけれど、なんと手塚治虫まで名を連ねているのである。想像するに、バックに財界だかなんだかの偉い人がついていて、自民党の票を削るためだけに、はなから落選させるつもりでかきあつめられたんじゃないのかと思うんだけれど。だいたい、手塚治虫なんか、赤旗で漫画を書いて「本当のことだけを書く新聞」だと登場人物に語らせたり、そうかと思えば自民党の偉い人のところでスピーチまでしたり、漫画さえ気持ちよくかければ政治的な思想なんかどうでもいいって人なんだから、こんな人が参加してるあたりで完全に茶番じゃないんだろうか。
革新自由連合という名前はこれっぽっちも覚えていなが、野坂昭如が選挙に出たことは強烈に覚えている。たしか、田中角栄のお膝元から出たはず。現役の作家だということ、角栄と張り合おうとしてることなどが話題になって、ワイドショーでもとりあげられていたはず。野坂昭如の演説もテレビで見たけれど、選挙演説というより結婚式のスピーチみたいなもので、言ってることは立派だけれど、ぼそぼそしゃべるばかりでサッパリダメだったような記憶がある。もちろん大差で落選した(票が入ったことすら不思議だが)。
巨泉は、その革新自由連合の旗揚げ集会に招かれてスピーチしたらしいが、仕事が入っているのですぐに退席したという。もちろん選挙にも出なかった。
愛は地球を救う
わたしは覚えていないんだけれど、24時間テレビ第一回目に巨泉も出ていたらしい。わたしは一回目の放送を見ている。手塚のアニメが目当てだったのだ。萩本欽一こと欽ちゃんがメインだったことは当然よく覚えていて、実はそれしか覚えていなかったりする。巨泉は、この番組ではあまり目立たなかったのだろう。
この本によると、テレビ局がこういう方法で福祉用にお金をあつめることに否定的だったそうで、最初から一度だけという約束だったとのこと。まあ、欽ちゃんさえいれば誰でもいいような番組だったから、二年目は強く誘われなかったかもしれないけれど。巨泉は、萩本の集金力に舌をまき、「今まで欽ぼうなどと呼んでいましたが、これからは敬意を表して欽ちゃんと呼びます」と打ち上げでスピーチしたと言う。
その欽ちゃんも数年目で降板してしまうんだけれど、なぜ出るのをやめたんだろう。番組では、欽ちゃんが出るとも出ないとも言わなかったので、小銭のたっぷり入ったボトルを手にした視聴者が、口々に「欽ちゃんに!」と言っていた。出演者は「欽ちゃんはどこかで参加しているはずですよ!」などと適当なことを言っていたのをよく覚えている。
そう、みんな、恵まれない人に寄付するというより「欽ちゃんに」寄付してた。何が面白いんだかわからないけれど、とにかく募金が集まるのを毎年ハイな気分で見守っていたような気がする。手塚のアニメをやらなくなってからはサッパリ興味がなくなって見ていない。
天中殺
- 1979年にブーム
- またもや矢追が和泉宗章という占い師を連れてくる。
- 巨泉は天中殺の理論には賛同し、番組でもとりあげる(月曜イレブン?)
- のちに、和泉が参考にしたという原典に疑義が生じてブームは終わり、和泉もあやまりを認める。
- 巨泉は、人に運気があることを信じており、押さば押せ、引かば引けをモットーに生きているという。同じ生年月日の人が同じ運命をたどるという部分だけは納得できないが、十二年に一度くらい、じっとしている時期があってもいいだろうと今でも信じていると書いている。
- 1979年、巨泉はアビコ氏とカナダのバンクーバーでゴルフの約束をした。
- 当日、アビコ氏から電話がかかってくる。カナダ航空のオバさんが訳のわからないことを言って困るからというので電話をかわる(もちろん英語)。
- アビコ氏はまちがった便に乗り、モントリオールについてしまった。今日中に行かないと叱られるのでタクシーを呼んでくれと言って困る。なんとか説明してほしい、という。
- そこでモントリオールからバンクーバーまでタクシーでは三日も四日もかかるのだとアビコ氏に説明し、明日の飛行機に乗るように説得したという。このやりとり詳しく引用しないがとても面白い。ギミア・ぶれいくを知っている人なら情景が目に浮かぶと思う。
- ある年の真夜中、園山俊二から電話がかかってくる。今ニューヨークだという。
- 日本が深夜であることを告げると「こっちは昼間」と平気な様子。
- あきらめて要件を聞くと、お土産を買いすぎたのでダンボール箱をくれる店を教えてくれという。
- ゴルフ場やレストランは教えられても箱の入手法までわからないと答えるが、チャイナタウンの入口におみやげ屋さんがあるし、巨泉自身がニューヨークに出してる店にもあるだろうから聞いてみてと答える。
- 園山氏は帰国後にお礼の電話をかけてくるが「(知らないといいながら)ホラ、やっぱり知ってたじゃない。また困ったことがあったら電話してもいい?」と言ったそうである。
巨泉によると、これが漫画家の発想で、こうでなければ良い漫画はかけないのだろうということだ。
巨泉する(ハウマッチ)
- 業界で「巨泉する」といえば、番組を辞めるといって脅かすことだと巨泉自身が書いている。
- しかし、巨泉が「辞める」と言った場合、本人は決して辞める気はなく、ギャラをつりあげる気もなかったらしい。それでスタッフの反応を見てやる気を確かめているのだと。
- 「世界まるごとHOWマッチ!」はイーストという会社が企画したものだが、アルファベットやビックリマークの入るタイトルが巨泉としては気に入らず、番組内容もクイズダービーの二番煎じのようなもので、気乗りしなかったという。
- そこで、回答者に「芸能界随一のインテリで雑学博士の石坂浩二とか、バカなことを言って笑わせているが実はめちゃくちゃ頭の良いビートたけし」をレギュラーでつかまえてこられたらやってもいい、と答えた。また、イーストの海外支社を、アメリカとパリだけでなく、アジアとオセアニア、中南米にも欲しいと要求する。
- 実際そのとおりに動き始めるが、番組内容や問題がありきたりで少しも面白くなく「こんな番組は辞める」と宣言してハワイに行ってしまう。
- ディレクターや放送作家など主要スタッフ五人は大慌ててハワイへ直行するが、クリスマスに五人そろってハワイにやってきて、翌日には帰国するというスケジュールをあやしまれ、身体検査までされるが麻薬などは出てこない。
- 理由を聞かれ、有名なテレビスターがハワイの別荘にいて、彼に来いといわれたのです。行かないと大変なことになる、と説明する。
- 職員はおかしな誤解をして、アメリカにもシナトラのような我がままなスターがいるが、日本にもいるのだな。おおかたクリスマスのパーティーでもやろうというんだろう、と言って通してくれたとのこと。
- こうして、番組内容を大幅に見直しす約束がなされ、ハウマッチの放送にこぎつけたとのこと。
- イーストはクイズ番組として企画したらしいが、巨泉としてはクイズの形をしたトークショーにするつもりだったとのこと。# このへんのつかみ方は本当にうまいと思う。クイズダービーはクイズの形式だからこそ面白く、それでいて回答者の個性もちゃんと出てくる。ハウマッチのような、世界の面白いものを紹介する番組をクイズ主体にしてしまうと中途半端でつまらなかっただろう。かといって、クイズをおざなりにしてタレントを見せるのではなく、ものの値段を現地の通貨で答えさせることで、知的なやりとりをスパイスに使っていたのがすごいと思う。
- 問題の作成にも力をいれ、かならず巨泉がチェックして面白いと思ったものを出題していた。後には個人的に言った旅行先で問題を仕入れてくるようにもなった。
コクがあるのにキレがある
ジャンボ尾崎と青木功で有名なアサヒビールのCMだが、もとは大橋巨泉とビートたけしで撮影され、放映をまつばかりだったという。そこへ、たけしがフライデーの編集部になぐりこみをかける事件があり、CMは中止になった。ピンチヒッターでジャンボと青木を起用してとったのが現在知られてるバージョンとのこと。本には白黒ながらまぼろしのCM写真が収録されている。