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不思議なことや、勉強になりそうな事を書きとめておくブログで、かつては日常の記録としても使われていたことがありますが、これからは不思議な話等をごくごくたまーに更新するかもしれません。

浴場から見たイスラーム文化

浴場から見たイスラーム文化

浴場から見たイスラーム文化

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 タイトル通り。以下はメモ。

 イスラームの公衆浴場は古代ローマ文化の遺産である。宗教上の理由から、ローマのとは違い混浴ではない。女湯と男湯が別に作られることもあれば、ひとつの浴場を日によって使い分けることもある。女湯の日には布きれをさげて合図にし、従業員も全員女になる。

 イスラームの世界では、古来女性が外界から隔離されて暮らしているため、公衆浴場だけが社交の場であった。そのため女湯は非常に騒がしく、ペルシア語でハンマーメ・ザナーン(女湯)といえば、騒がしい場所を意味する比喩的表現である。レバノン方言では大騒ぎのことを「断水した女風呂のようだ」と表現する。

 十四世紀エジプトの歴史家イブン・アッ=ダワーリーの『真珠の宝函』第六巻によれば、ファーティマ朝第六代カリフ、ハーキムが、たまたま通りがかった公衆浴場で女たちが騒がしくしているのに腹をたて、入り口を塞いで中の女たちを餓死させたという。ハーキムは狂気じみた行動と異教徒の迫害、専制的統治で知られている。

 男女が分けられるのと同じように、異教徒も別の扱いをうけることがあった。当時の異教徒は帽子の色や腰布などでムスリムでないことをアピールするよう求められていた。裸になってしま浴場でも首から異教徒の印をさげたり、足首に結んだりすることがあった。そういった決まりは歴代の統治者から繰り返し公布されたが、地域や時代によってはあまり実行されておらず、十五世紀ドイツのキリスト教修道士フェリックス・ファブリによれば、エルサレム巡礼中に立ち寄ったガザの公衆浴場でなんの差別も受けなかったと書き記している。その反面、十六世紀のザファビー朝アッバース一世の時代イスファハーンでは、多神教とと同じようにキリスト教徒が公衆浴場から閉め出された。

 浴場では、腰布をつけるなどして秘部を隠すことが求められていたが、時代により、地方により、あまり守られていなかった。女湯については時代を問わず庶民は素っ裸で入浴する者が多かった。十四世紀モロッコの法学者イブン・アル=ハーッジは、ある女性が公衆浴場でへそから膝までの秘部を隠していたところ、他の女性がひどくののしったために覆いを取り去ったという出来事を「聖法学入門」に記録している。

 十九世紀前半、カイロに滞在したイギリス人エドワード・レインは「多くの下層階級の女性は、浴場でなんの覆いも身につけず、腰の回りに布すらまかない」と書き残しており、レインの妹ソフィア・プールもカイロの公衆浴場で女性たちが素っ裸で歩き回っているのを見て「嫌悪感を覚えた」と書き残している。

 イスラムの公衆浴場は事前目的で作られることも多かった。浴場をたてた者は、自分の所有権を永久に停止し、そのかわりに自分が選んだ団体や個人が浴場を無料で使えるようにするか、収益の一部を受け取るようにした。その場合の受益者は、モスク、学校、病院、修道場など宗教施設である場合と、自分の家族や子孫、友人などである場合があった。

 浴場の運営がイスラーム法にのっとっているかは風紀監査官によって定期的に検査されたが、ペルシア地域ではあまり機能しておらず、浴場が梅毒などの感染源になっていた。イスラム世界では、約三百五十リットルの水をクッル(ペルシアではコッル)といい、水が一クッルに達したならば穢れを持たないという伝承がある。ペルシア地域では浴槽のことをコッルと呼んでいたため、浴槽の水がどれほど汚れていてもイスラーム法的には清浄とされ掃除されなかったという。これはペルシア特有のもので、他のイスラーム地域では清潔が保たれていたようだ。現在のイラン(ペルシア)では公衆浴場に浴槽をつけてはいけない決まりになっている。ペルシアに限らず、イスラーム世界ではシャワーが普及したため公衆浴場自体が衰退している。

 ……などなど。
 中国人から見たイスラームの浴場、イスラームから見た日本の混浴、イスラームの公衆浴場を見た最初の日本人の記録なども興味深い。