兎園小説より抜き書き
『兎園小説』は、文政八年、滝沢馬琴の呼びかけで文人たちが集まり、それぞれが持ち寄った奇妙な話を披露し合った兎園会のまとめ本だそうです。細かく読んでいけば興味深い話が多数あるのですが、今回の目的はうつろ船の蛮女の話を確認することだったので、特別目についたものだけ二、三メモします。底本は『日本随筆大成(第2期 第1巻) 兎園小説 草廬漫筆』
銀河織女に似たる事
南亜米利加のうちに「アマソウネン」といふ所あり。此所の山に女ばかりすみて、一年に一度河を渡りて男に逢ふといふ。その河の名を蛮語にては、「リヨゲラタラタ」といひ、紅毛語にては「シリフルヒリール」といふ。「シルフル」とは銀なり。「リヒール」は河なり。もろこし人のいひ伝へし銀河織女の事などは、かゝる事を聞き伝へたるにや。その山の辺に、男つねにかよへば、竹鎗にてふせぎて入れずといふなれば、阿蘭陀通事今村金兵衛話なりと、蜀山翁申されき。[頭書、解按、坤輿図説、韃而靼附録、亜瑪作搦条下曰、■西旧有、女国。曰亜瑪作搦。最驍勇善戦甞破名都国俗惟春月容男子。一至其地。生子。男輙殺也。今又為他国所併。今村生所話、亜瑪作搦女国事、葢拠之也。著作堂追記。]
# アマソウネン…オランダ語でアマゾンのことか。
# リヨゲラタラタ… スペイン語の Rio de la Plata リオデラプラタが訛ったものか。
# シリフルリヒール… ロシア語で銀は серебро シリブロ、川は река リカーである。
# ■…漢字が出ない! しんにょう+施の旁の部分
# 亜瑪作搦…北京語読みでは Yà mǎ zuò nuò であるからアマゾンの音写であろう。
# 漢文の"極めて"おおざっぱな意味は、「『坤輿図』の韃而靼(タタール?)の附録、アマゾンの条に、女国がある、勇ましい男子がその地におもむいて子を作るが、男は殺されてしまう、今では他の国の一部になっている、とある。本文の元ネタはこれなんじゃないの?著作堂(馬琴のこと)追記。」という感じ??ギリシア神話のアマゾーン(アマゾネス)は黒海沿岸の部族だったと言われているので、『坤輿図』に書いてあるというのもアメリカ大陸のアマゾン川のことではないかもしれない。そういえば韃而靼(タタール)って書いてあるし。
# アマゾン川でとれる微斜長石の一種を天河石(アマゾナイト)というが、天河は銀河のことでもあるのでイメージの連鎖が面白い。天河という訳語が日本で作られたものならばアマゾンのアマを天で音写したものと考えられるが、尼でも雨でもなく天を使うのは、アマゾネスの伝説を織女と重ね合わせたからではないかとも想像できる。いや、単なる偶然のような気もするが。天河という言葉のルーツもさぐりたくなってくる。
土中の行者不死
信濃国伊那郡平井手といふ村に、いと大きなる槻(けやき)ありけり。[平井手は下の諏訪を距ること三里許に在り。内藤家の封内なり。]文政十四年丁丑の秋のころ、させる風雨もなかりし日に、此木おのづから倒れけり。かくてそのうごもちあばけし坎(あな)の中に、ひとつの石櫃あらはれたり。里人等いぶかりて、みな立ちよりて見る程に、この石櫃のうちよりして、鈴鐸の音、読経の声の洩れてかすかに聞えしかば、人々驚きあやしみて、彼に告げこれにしらせ、つどいて評議したりける。そのとき里の翁いはく、むかし天竜海喜法印といふ山伏あり。当時この人の所願によりて、生きながら土定したりと伝へ聞きたることもぞある。おもふに彼法印は、今なほ土中に死なずやあるらん。是なるべしといひしかば、里人等うべなひて、櫃の上に残りたる土を掻払ひつゝ、よく見るに果たして歳月名字などの彫りつけてあるにより。感嘆敬信せざるものなく、俄に注連を引繞らし、芦垣をさへ結びなどして、みだりに人を近づけず。かゝりし程に近郷の老若男女伝へ聞きて、参詣群集したりしかば、更に又仮屋やうのおのを修理ひて、線香洗米などを備へ、なほ日にまして繁昌しけり。しかれども石櫃をなそがまゝにして、戸をひらかず。鈴鐸の音、読経の声は、月を経れども絶ゆることなし。その石櫃の上のかたに、息ぬきの穴三つ四つあり。その入り口は二重戸にて、第一の戸はひらけども、二の戸は内より鎖したるが、はじめひらかんとしたれども、得披かれざりければ、その後は里人等もおそれて、いよいよ開くことなし。この年冬のころまでも、参詣日毎にたえずとぞ。抑この一条は、同年の霜月より予が家に来て仕へたる、初太郎といふ僕の云々とかたりしなり。渠は信濃国高島郡下の諏訪真字野村のものなり。そのふる郷にありし日より、件の事を伝へ聞きつゝ。こたみ江戸へ来つる折、同行のものもろともに平井手村へ立ちよりて、かの石櫃を見きといへり。しからばその年号は、何とかありしとたずねしに、年号はおぼへ候はず、大約今より百五十年に及ぶと聞きつといふ。さらば明暦万治の中か。寛文にはあらずやと、一二を推して問ひ質せども、いひがひもなく知らずと答ふ。かゝるあやしき物語には、そら言も多かれば、疑はしく思ふものから、はたちに足らぬ田舎児の正しく見きといふなれば、作り設けし事にはあらじ。彼地の人にあふ事あらば、ふたゝび問はんと思ひつゝ、雑記中にしるしおきしを、けふのまとゐに写し出でたり。扨そのゝちは、いかにしけん。又問ふよしもなく過ぎにき。按ずるに、見聞集に云、慶長二年のころほひ、行人江戸へ来たりいふやう、神田の原大塚のもとにて、来る六月十五日火定せんとふれて町をめぐる。是をおがまんと貴賤ぐんじゆし、広き野も所せき立どなかりけり。塚本に棚をゆひて、その下に薪をつみ火を付け焼き立つる処に、行人、火中に飛びいりたりとも、弟子の行人ども、そばよりつきおとしたりともいふ。我たしかには見ざりけり。次の日、朋友とうちつれとぶらひゆき、大塚のあたりを見るに、人気はひとりもなく、跡には骨まじりの灰ばかりのこりたりとしるしつけたる事もあれば、およそは慶長元和より明暦万治のころ迄も、さる名聞の為などに命をうしなふゑせ行者の、江戸の外にもありしならん。火定は弟子に突き落とされても、立どころに死にたらめ。土定して百五六十年さすがに死も果てざりしは、なほこの火宅に愛惜したる慾念の凝れるにこそ、迷ひのうへの迷ひなるをも、よに理にあきらかならで、只奇に進り信を起すは、なべての人のこゝろなりけり。今も又さる人あらば、智識の杖もて破却せしめて、成仏させたきものにあらずや。
# 信濃国は伊那郡で巨大なケヤキがひとりでに倒れ、その根元から出てきた石櫃から読経の声が聞こえたという話。百五六十年前に土中入定した山伏がまだ生きているのであろうという。筆者が直に聞いたのではなく、家で雇っている者がその話しを聞いたとある。後半は、江戸で火中入定した行者の話になっていて「(似非行者であっても)火中入定であれば弟子に突き落とされて立ち所に死ねる(悟りの境地に至る)のであろう。土中入定して百五六十年も死なないのはこの世への未練が凝り固まって、迷いに迷っているせい(悟れてないってこと)だから、知恵の杖でぶっ壊して成仏させてやりたいなあ」としめくくっている。死なずに生きてることが奇跡なんじゃなくて迷いの結果だってところが面白い。
夷言粉挽歌
蝦夷地大臼山善光寺上人は、知徳のほまれ高く、霊厳寺中に旅宿ありしうちも、都下の信者、歩をはこびて帰依せしに、往西の期定めありてこゝにて遷化あり。人々挙りて惜みあへり。其夷地に生まれし時、粉引歌を作りて夷人を教化ありしとて、その歌をうつし贈りし友あり。かたはらに夷言を訳しあるも、めづらしければうつし奉るものなりし。
粉引歌
念仏上人ユホウンシンハイナ | |
是や人々 | 教を聞よ |
タハアンウタレ | エハカシユカス |
早い遅いか | 一度は死ぬぞ |
トナシモイシカ | アリシユイライナ |
死ぬがいやなら | 念仏申せ |
ライホコハナキ | ネンブツキカン |
申す人なら | いつなん時に |
キクルネヘキネ | センハラヤソカ |
仮のからだの | 死たるとても |
ウヽセネトハチ | ライハネヤツカ |
蟬の脱がら | 捨つるがごとく |
ヤアキセイヘシ | ヲシヨウコラチ |
月も日も | 死せざる国へ |
チコブアフレハ | シヨモライコタレ |
往て生れて | 心のまゝに |
ヲマンセカトハ | ヤヱラムアニネ |
妻や子供が | かあいぞならば |
エマチホホタレ | ヲマツフハネチキ |
共に念仏 | 申すがよいぞ |
ウトラネレフツ | キイチキヒリカ |
此世は必ず | 災難受けず |
タレムシリカタ | シヨモヤイホムシユ |
後世は分 | 浄土に生れ |
ムシリホツハユ | アヲラムトクテ |
一つ蓮の | 台に乗って |
シネツフユフイナ | カシケタオヽハ |
永く楽しみ | 死ぬことぞなし |
ヲホンノヌヤツネ | シヨモライルネネ |
右一即檜山坦島、予におくる所なり。此上人の事を誓願寺にとふに名は弁瑞、文政七年十一月頃遷化せしを、火葬しければ舎利多く出現せしといへり。
# あとでアイヌ語の辞書を引いてみようと思う。
うつろ舟の蛮女
享和三年癸亥の春二月廿二日の牛の時ばかりに、当時寄合席小笠原越中守[高四千石、]知行所常陸国はらやどりといふ浜にて、沖のかたに舟のごときもの遥に見えしかば、浦人等小船あまた漕ぎ出だしつゝ、遂に浜辺に引きつけてよく見るに、その舟のかたち、譬へば香盒のごとくにしてまろく長さ三間あまり、上は硝子障子にして、チヤン(松脂)をもて塗りつめ、底は鉄の板がねを段々筋のごとくに張りたり。海巌にあたるとも打ち砕かれざる為なるべし。上より内の透き徹りて隠れなきを、みな立ちよりて見てけるに、そのかたち異様なるひとりの婦人ぞゐたりける。
その図左の如し
そが眉と髪の毛の赤かるに、その顔も桃色にて、頭髪は仮髪(いれがみ)なるが、白く長くして背に垂れたり。[頭書、解按ずるに、二魯西亜一見録人物の条下に云、女の衣服が筒袖にて腰より上を、細く仕立云々また髪の毛は、白き粉ぬりかけ結び申候云々、これによりて見るときは、この蛮女の頭髷の白きも白き粉を塗りたるならん。魯西亜属国の婦人にやありけんか。なほ考ふべし。]そは獣の毛か。より糸か。これをしるものあることなし。迭に言語の通ぜねば、いづこのものぞと問ふよしもあらず。この蛮女二尺四方の筥をもてり。特に愛するものとおぼしく、しばらくもはなさずして。人をしもちかづけず。その船中にあるものを、これかと検せしに、
水二升許小瓶に入れてあり。[一本に、二升を二斗に作り、小瓶を小船に作れり。いまだ執か是を知らず。]敷物二枚あり。菓子ようのものあり。又肉を煉りたる如き食物あり。
浦人等うちつどひて評議するを、のどかに見つゝゑめるのみ。故老の云、是は蛮国の王の女の他へ嫁したるが、密夫ありてその事あらはれ、その密夫は刑せられいを、さすがに王のむすめなれば、殺すに忍びずして、虚舟(うつろぶね)に乗せて流しつゝ、生死を天に任せしものか。しからば其箱の中なるは、密夫の首にやあらんずらん。むかしもかゝる蛮女のうつろ船に乗せられたるが、近き浜辺に漂着せしことありけり。その船中には、爼板のごときものに載せたる人の首の、なまなましきがありけるよし、口碑に伝ふるを合せ考ふれば。件の箱の中なるも、さる類のものなるべし。されば蛮女がいとをしみて、身をはなさゞるなめりといひしとぞ。この事、官府へ聞えあげ奉りては、雑費も大かたならぬに、かゝるものをば突き流したる先例もあればとて、又もとのごとく船に乗せて、沖へ引き出だしつゝ推し流したりとなん。もし仁人の心もてせば、かくまでにはあるまじきを、そはその蛮女の不幸なるべし。又その舟の中に、■■■■等の蛮字の多くありしといふによりて、後におもふに、ちかきころ浦賀の沖にかゝりたるイギリス船にも、これらの蛮字ありけり。かゝれば件の蛮女はイギリスか。もしくはベンガラ、もしくはアメリカなどの蛮王の女なりけんか。これも亦知るべからず。当時好事のものゝ写し伝へたるは、右の如し。図説共に疎鹵にして具ならぬを憾とす。よくしれるものあらば、たづねまほしき事なりかし。
# 常陸国にうつろ船が流れ着く話は享和三年発行の『養蚕秘録』にもある。天竺は霖異大王の娘で金色姫という者が豊良湊に漂着し、間もなく死んだとある。金色姫は継母に嫌われ四度死にかけたことから、父王が行く末を案じてうつほ船に乗せて流したものという。その霊魂が蚕になったとも。つくば市内にある蚕影神社の縁起書には「霖夷王」とあり、この王は欽明天皇と同時期(六世紀)の人だという。密夫の首を持ち歩くなどという話はここにはない。
# 図左の如しはおおむね下のような図で、文中の■■■■にした蛮字もここに書いたものに近い(王に似た文字のみ少し違う)。