ネタ袋

不思議なことや、勉強になりそうな事を書きとめておくブログで、かつては日常の記録としても使われていたことがありますが、これからは不思議な話等をごくごくたまーに更新するかもしれません。

江戸名所図会から抜き書き

 角川書店『新版 江戸名所図会』上・中・下巻より

護国山観福寿寺(ごこくさんかんぷくじゅじ)

 東子安村新宿、海道より右の方の山脇にあり。世俗浦島寺と称す。昔は帰国山浦島院といひける由、縁起に見えたり。東寺は淳和帝の勅願にして、檜尾僧都開基たり。

本堂 本尊聖観音世菩薩

 立像にして御丈一尺三寸あり。世に浦島の観世音とのみも称せり。寺伝に曰く、東寺浦島子(うらしまこ)蓬壺(ほうこ)の蘭台(らんだい)にあそび、旧里に去らんとするの日、神女一箇の玉匣と共に、大悲の尊像をあたへて曰く、子(し)今本土にかへり去らんとす。よって渡海風波の難を凌ぎ、又長生ならしめん事をねぎ思ふと。つひに島子故郷に帰り去るの後、むさしの国霞が浦にいたり(今のかな川の地なり。)尊像の告(つげ)により父のつかの地をしり、傍に草堂を結んで、かの大悲の霊像をうつしまゐらすとあり。

浦島神社

 本堂に安ず。八千歳の御社とも称するよし縁起にみえたり。この社は乃ち浦島太郎の霊をまつる。開山檜尾僧都より五世後、勝会上人(しょうかいしょうにん)の時に至り、寛平七年七月七日霊告ありしより、毎歳七月七日を祭日とするといへり。今丹後国竹野郡阿佐茂川の東網野村といへるに、浦島子の霊社あり、麻毛河明神と称せり。又網野明神とも号くる(なづくり)よし、『詞林采葉(しりんさいえふ)』および『神社啓蒙』等の書に見えたり。『和漢三才図会』に、浦島子は根の見命(ねのみのみこと)の後胤なりとあり。考ふ可し。

亀化大竜

同本堂にあり。浦島子海上に釣を垂れて得たりし霊亀を祝ひまつるといへり。渡海安穏守護の神なりとて、船人これを崇敬す。
# 慶運寺に小堂を設けて祀られているという。

竜燈の松

 寺の後の方(方)、山の頂にあり。伝へていふ、この樹上今も時として竜燈の懸かる事あり。当寺の本尊は竜宮相承の霊像なれば、その証(しるし)としてかくの如しなとなり。
# 大正四年まであったが伐採されたという。

目当燈籠(めあてどうらう)

 竜燈の松の下にあり。夜中入津の船の便とす。享保の頃、この地の農民松井某建立せしとて、今に連綿たり。

菩提樹

 当寺山林に数株ありて、年々に業生す。相伝ふ、浦島子の竜の都より齎し来る所なりと。

浦島太郎の墓

 堂前にあり。島子自ら建て置きし故に齢塚(よはひづか)といふなりといへり。
# 風土記稿東子安村浄土宗西運寺の条に、同寺境内に浦島塚あり、昔は大きかったが年々欠け崩れて凡そ二畝ばかりの塚を残し、上に五輪の石塔がある。また塚の傍らに古碑一基あり、永仁四年の文字が見えるとある。現在は浦島父子と亀化竜女の供養塔(柱状で天明八年大阪の浦島西講中と住職曇誉が建てたもの)が慶運寺に移されている。

同足洗の井

 道の傍にあり。今も里民の用水とせり。又布袋丸の井ともいふとぞ。

同腰掛石

 その旧跡今さだかならず。

# 浦島関連の遺物の一部は慶運寺東隣の日蓮宗蓮法寺(七島町)にも移されたというが明らかでない:角川書店版注。
# 蓮法寺には浦島太郎父子の供養塔とおぼしきものが存在している。角川書店版が出たのは昭和41年というから、その後にまた移動があったかもしれない。
http://www.chinjuh.mydns.jp/ohanasi/tanbou/0001.htm

於玉が池

 旧名を桜が池と云ふ。今神田松枝町人家の後園に、於玉稲荷と称する小祠(こみや)あり。里諺に云ふ、於玉が霊を鎮ると。その傍に少しく井の如き形残れり。昔の池の余波なりといへり。(往古は大なる池なりしが、江戸の繁昌にしたがひ、漸くに湮滅してかくのごとしとなり。)里老伝へ云ふ。昔この地は奥州への通路にて、桜樹あまた侍りける所にありし池なる故に、桜が池とよべりとぞ。その傍の桜樹のもとに玉といへる女出で居て、往来の人に茶をすゝむ。容色大かたならざりければ、心とゞめぬ旅人さへ懸想せぬはなかりきとなん。中頃、人がらも品形もおなじさまなる男二人まで、かの女に心を通はせける。されば切なる方にと思へどもいづれおとりまさりもあらざりければ、我身のうへを思ひあつかひて、女は終にこの池に身を投げてむなしくなりぬ。さながら津の国の求塚(もとめづか)の故事に似て、いともあはれなればとて、里民打寄りて、亡骸を池の辺に埋み、しるしにとて柳を植ゑて、記念(かたみ)の柳とは号けけると云々。(その旧址、明暦の回禄に亡びぬるとぞ。今は名のみを存せり。この故にお玉が池とは呼びならはせりとなん。
# 後にお玉の塚の上に稲荷社を勧請し、お玉稲荷と称するが、明治四年に下小松稲荷社と合祀され、於玉稲荷神社と名を改め、現在は葛飾新小岩四丁目にある。

帝釈天

 柴又村題経寺に安置す。江戸より二里半。当寺は寛永年間の草創なり。縁起に云く、当寺第九世日敬師在住の頃、堂宇大いに破壊す。師深くこれを嘆き、普く四方に行乞して、再興の志を励まし、終にその堂舎を造り改めんとする時、梁上よりこの板本尊を得たり。旧当寺に、高祖大士手刻の祈祷本尊と称するものある由、云ひ伝へし事の侍りしも、この時に至りて空しからぬを尊み、則ち本尊とすといへり。長さ二尺五寸、幅一尺五寸、厚サ五分許ある梨板なり。片面は中央に首題、および左右に両尊四菩薩、又病即消滅等の数字を刻し、その下に五月日とありて、大士の号および花押を印せり。又片面は帝釈天王の影像なり、右の御手に剣を持し、左の御手は開きて忿怒の相を顕し給ふ。これ除病延寿の本尊悪魔降伏の尊容なり。信敬の輩にはこれを印して与ふ。点画あざやかにして希代の本尊なり。往古摂の四天王寺に、初めて帝釈天降臨ありしも庚申の日なり。当寺の板本尊出現も又庚申にあたる故に、その因縁にてこの日を縁日とすといへり。
# 板本尊出現は寛永八年もしくは七年とされる

夕顔観音堂

 新宿(にひしゅく)の渡口より半道ばかり西北の方、中川の堤に傍ひて、飯塚村といふにあり。本尊聖観世音は金像にして、御丈五寸ありと云ふ。されども深く内龕に秘して拝するをゆるさず。別に慈覚大師手刻の観音の木像を以て、龕前に安ず。相云ふ、この地は昔荘官関口氏某が采地なり。『江戸砂子』に、この地は村岡五郎平良文(むらおかごらうたいひらのよしぶみ)が墳墓の旧址なりとあれども拠なし。)往古(そのかみ)関口氏この地に就て熊野権現及び水神等の社を創す。(この叢祠今猶存す。)その社前に老松と榎樹の二樹の双立するあり。春夏は枝葉憔悴、秋冬は翠色を増す。人以て奇なりとす。又この樹間時として光を発し、或は竜燈の梢にかゝるをみるといふ。寛文八年戊申関口氏、この地の医生深谷氏と共に相謀りて、この樹下を掘りしに、一二の仏具を得たり。深谷氏は紀州の産にて喜兵衛と云ひ、その頃齢七旬嫗あり。年相似たり。神祠の傍に住す。翁嫗素より信心にして、日蓮の弘法に帰し、常に妙経唱題懈怠ある事なし。)これ必ず古時この地に有名の寺院ありしならんと云ひて、竟に同年六月六日慎んで猶この土中を掘りしに、金像の大悲の像一躯得たり。仏像背面に弘長二年二月造といへる七字を刻せり。よって直に深谷氏の家に移し、仮に仏壇に安ず。相好端厳実に凡工の所造に出でざる所あり。然るにその前宵、深谷氏翁嫗共に夢の応(きざし)あるを以て、ますます奇なりとし、竟にこの地を開きて草堂を営み、この霊像を遷し奉りけるとぞ。
 按ずるに、世に夕顔観音の像は瓠瓜(こくわ)の中より出現し給ふ故に、この称ありとも云ふ。或は云ふ。紫式部の念持仏なりともいひ伝へり。この地の縁起に載する所と異なり。何の故に夕顔の称あるにやそのよる所を知らず。
# 夕顔観音は現存するが、刻まれている文言が違うという。「□□加原□前御正体□□□□小僧良覚交□奉□□就円□所奉□□□弘長二年壬戌閏七月十八日僧良覚」

和銅寺廃址

同所(猿俣)にあり。仏生山と号したる真言の古藍にして、和銅年間の草創なりと云ひ伝ふ。中古までも伽藍巍々たりしに、天文六年国府台合戦の時、兵火の為に灰燼となりて、寺僧も悉く追ひ散らされて、終に廃寺となりけるとて、今その号のみを伝ふ。
# 現在の遍照院。


…疲れた。欲しいんだけど、角川版はもう買えないらしい。ちくま学芸文庫版って中身どんなんだろう。