ネタ袋

不思議なことや、勉強になりそうな事を書きとめておくブログで、かつては日常の記録としても使われていたことがありますが、これからは不思議な話等をごくごくたまーに更新するかもしれません。

吾妻(あがつま)という地名の由来

 群馬県北部に吾妻郡というところがあります。一説によればヤマトタケル尊が妻のオトタチバナヒメを思って「吾妻はや(あづまはや、あがつまはや)」とつぶやいたことに由来していると言います。信じようと信じまいと!

 今回は別の説を紹介します。『神道集』という南北朝時代(十四世紀)に成立した神仏説話集にある話です。かいつまんで説明すると

 児持御前(こもちごぜん)という姫君が、無実の罪で下野国(栃木県)に流された夫を慕い、上野国群馬県)の尻高(しりたか、しったか)までやってくるが、姫が道中で祈願した熱田大明神の化身が夫と父親を救い出して上野国まで連れてきてくれた。夫が妻に再会した場所なので、それ以来この地を吾妻(あがつま)と呼ぶようになった

と、かなり後付けくさい由来ですが、そういう話もあるそうです。

 以下はもうちょっと詳しいストーリーです。


 昔、児持御前という美しい姫君がいました。幼い頃に母親を失いましたが、父親の新しい奥方も児持御前のことをとても可愛がりました。姫が大人になると、新しい母親の弟である和理という人と結婚して幸せに暮らしていました。

 ある日、伊勢の国司が児持御前のことを見初めて、なんとしてでも自分のものにしたいと考えました。そこで和理を呼んで「国司の職を譲り渡すので、かわりにおまえの妻をくれないか」と言いました。しかし、和理は妻のことを本当に愛していたので、そんな馬鹿なことをと取りあいませんでした。

 国司はかんかんに怒って「和理が謀反を企てている」と、根も葉もないことを朝廷に告げ口しました。こうして和理は捕らえられて下野国(栃木県)に流刑にされてしまいました。

 邪魔者がいなくなったので、国司は改めて児持御前を自分のものにしようと考えました。国司の使者が児持御前を迎えに来るというので、継母の君が知恵をめぐらして、サモチという魚を焼いて使者を迎えました。サモチは焼くと酷いにおいがします。

 使者が到着するとあたりに死臭が漂っているので、一体何事かと言いました。そこで「児持御前は夫が流刑になったのを嘆いて死んでしまいました。いま葬儀を行っているところです」と説明します。すると使者たちは「ほかの神ならいざしらず、伊勢の神様は仏事を嫌う。早々に退散しよう」と帰って行きました。国司もまた「そこまで仲の良い夫婦を引き裂くなど、無意味なことをしてしまった」と、姫のことをあきらめました。

 このことから、サモチという魚はコノシロ(子の代)と呼ばれるようになりました。わが子を出す代わりにサモチを焼いたからです。

 国司は追い返したものの、夫は遠い東国で捕らえられたままです。児持御前は悲観して、髪を切って出家してしまおうと思いましたが、お腹には夫の子がいるのでそれもできませんでした。そこで夫の甥を頼って上野国群馬県)へ旅立つことにしました。田舎で人知れず余生をすごそうとしたのでしょう。また、少しでも夫の近くにいたかったのかもしれません。

 旅の途中で産気づき、熱田神宮の鳥居の外にある家に滞在し、子供を産みました。このとき姫は、熱田大明神に自分を助けてくれるようにと祈願しました。

 さらに東へと旅を続けると、途中で二人の侍に出会い、一緒に上野国まで来てくれることになりました。上野国では夫の甥が姫を迎え、話の一部始終を聞くと、自分が下野国まで様子を見に行こうと言うので、二人の侍も一緒について行きました。

 和理は厳重に閉じこめられていましたが、二人の侍が神通力を発揮して牢を破りました。こうして和理とその甥と、二人の侍は上野国に向けて旅立ちましたが、宇都宮に立ち寄り、二人の侍は四十歳ほどの老侍と会見し、何か相談していました。和理は、この侍たちは何者だろうと思いましたが、この時はまだその正体がわかりません。

 とうとう上野国までやってきて、和理は妻の児持御前と再会しました。二人は再会を心から喜びましたが、もはや苦しみに満ちたこの世に留まりたいとは思いませんでした。そこで、自分を助けてくれた侍たちに
「みなさんは一体どういうお方なのですか。普通の人間とは思われません。どうか、わたしたちに神道の法をお授けください。みなさんの眷族(けんぞく、仲間のこと)に加えていただければ、この世の人々のために利益を施したいと思います」
と言いました。

 すると、侍たちは正体をあかし、ひとりは熱田大明神、もうひとりは諏訪大明神であると言いました。また宇都宮で出会った老侍は、宇都宮大明神であるとも言いました。

 こうして児持御前と和理は神道の法を授けられて神になりました。児持御前は群馬郡白井にある山に神として住み、以来その山は児持山(こもちやま)と呼ばれるようになりました。また、夫は見付山(みつけやま)の峠に神として現れて、和理大明神(すさとだいみょうじん)と呼ばれるようになりました。

 また、夫の甥もまた神道の法を授けられて上野国北部にある尻高(現在の群馬県高山村)で山代大明神と呼ばれる神になりました。またこの地は「わが妻に会わせてくれためでたい土地」なので、吾妻(あがつま)と呼ばれるようになりました。