ネタ袋

不思議なことや、勉強になりそうな事を書きとめておくブログで、かつては日常の記録としても使われていたことがありますが、これからは不思議な話等をごくごくたまーに更新するかもしれません。

オーロラUFO墜落事件

 1897年4月17日早朝、テキサス州のダラスから70Km、フォートワースから40Kmほど離れた小さな町オーロラに、謎の飛行物体が現れた。それは葉巻き型で町の風車に激突して大破した。しかしその事件が世間に知られるようになったのは1973年に、ある新聞が昔の不思議な事件として記事を掲載してからの事だ。

◇ ◆ ◇

 1897年4月17日早朝6時、オーロラの町の上空に飛行船が現れる。それはゆっくりと低空飛行を続け、故障しているように見えた。やがて飛行船はプロクター判事の家の風車に激突して大破。破片が50m四方に飛び散った。

 乗員は操縦士ひとりだった。遺体の損傷が激しいもののほぼ全身が回収された。それはこの世の者とは思えぬ姿だったという。

 オーロラで米軍通信機関に勤め、天文学の権威でもあるT.J.ウィームスが操縦士の遺体を火星人であると断定する。

 操縦士は航海日誌とおぼしき書類を身に付けており、ヒエログリフのような未知の文字で書かれていて解読できなかった。

 飛行船は大破し構造はわからない。材質はアルミと銀の合金のような未知の金属だった。全体の重さは数トンと見られる。

 なお、操縦士の葬儀は町で執り行われたという。

 後に、ジム・マーズとビル・ケースという二人の地元新聞社の記者がこの事件について町の人たちの証言を集めている。

 事件当時15歳だったメアリー・エヴァンスは、家族と一緒にオーロラに住んでいた。両親は墜落が起きた判事の井戸を見に行ったが、彼女は連れていってもらえなかった。両親から飛行船が爆発したと聞いている。操縦士はバラバラになって死んだが、遺骸を集めた村の男たちによれば、それは小男だったという。彼はその日のうちに共同墓地に葬られたそうだ。ただし、そのことをメアリーは最近まで忘れており、1973年の新聞記事を見て思い出す。

 チャーリー・C・スティーブンスは当時10歳にもならない子供だった。父親と牛の放牧に行く途中で葉巻型の光る物体を目撃。物体は非常に遅く、北へ6Kmほど離れたオーロラの町に向かって飛んで行った。爆発音がして、北の空が数分間炎に染まった。翌日父親が馬で町まで見に行くと、事件現場には引きちぎれた金属と黒焦げの破片が大量にあったという。チャーリーの父の話には操縦士の話題がなく、墜落当日に埋葬されたというメアリーの証言と一致する。

 一方で、何も覚えていないと証言する者もいる。ロビー・レイノルズ・ハドソンは、墜落事件当時12歳で、オーロラの町外れに家族とともに暮らしていたが、飛行船墜落の話はよそから馬に乗って来た男から聞くまで知らなかった。

 事件から48年後の1945年、墜落現場であるプロクター判事の土地をブローリー・オーツとエッタ・オーツという夫婦が買い取り、そこで4年間くらした。夫人は証言する。「畑の中に宇宙船が衝突したらしい場所があり、そこには草一本生えませんでした」

 オーロラを離れてからもオーツ一家は嚢胞や甲状腺腫に悩まされていた。夫人は墜落現場にあった古井戸の水を飲んだせいだと考えている。井戸は放射能で汚染されていると、あらかじめ聞かされていたそうだ。そのような井戸水をなぜ飲んでしまったのだろうか。

 ノース・テキサス大学の物理学者トム・グレイ博士は墜落現場で発見された金属片は、当時の科学では理解しかねる物質であると表明。それは地上に叩きつけられたかのように溶解しており、主成分が鉄であるにもかかわらず、全く磁性を示さなかった。

 記者のマーズとケースは操縦士の墓にも訪れている。それは町の共同墓地にあり、非常に小さく子供の墓のようだったという。墓石は半分破損しており、自然石のようなものを笠石としてのせてあった。かろうじて残っている墓碑には、V字が刻まれており、Vの中に小さな円が三つ刻まれていた。このような形をした墓は共同墓地内には他になかった。また、墓に金属探知器をあてると、大きな金属片が三つは入っていることがわかった。

 彼らは操縦士の墓を掘り起こそうと法的な手続きにとりかかったが、オーロラの住人に反対された。そのせいでしばらくの間、墓地は武装した保安官に見張られていたという。

 警備がとかれたとたん、墓の笠石が盗まれてしまった。墓には穴が三つあいており、金属探知器をあてると以前のような反応がなかった。中に金属があることを知っているのは、ケース記者によれば政府だけとのこと。

 教員をしていたマーズ記者の妻が、警官の息子であるジェームズ・アイデルからあることを打ち明けられる。ジェームズの祖父が操縦士の埋葬を手伝ったというのだ。彼が祖父から聞いた話では、操縦士は身長は約 90Cm くらい。頭が大きく、まさに宇宙人だったという。

 警官であるジェームズの父親もまた思わせぶりな証言をしている。墓の笠石を盗んだ者を知っているが、職務上の秘密で話せないというのだ。

 墓地をあばかれてしまった今、墜落した飛行船が宇宙から来たものだと証明する手段もなく、都市伝説のひとつとして語られるのみだ。

◇ ◆ ◇

 UFOで思い出したので、箇条書きだった過去記事をまとめなおしてみました。『宇宙人UFO大事典―深〈地球史〉』という本からの抜き書きで、本の著者はオーロラで墓の調査をしようとしたジム・マーズ本人です。この人はアメリカでは有名らしく、英語版のウィキペディアにも名前があります。アメリカ版の矢追純一みたいな感じでしょうか。そういえば墓を掘り返そうとしたあたりから政府の陰謀論みたいになって話が少しあやしいです。マーズは2017年に心臓発作で亡くなったとのこと。

ウェストオールUFO事件

 1966年4月6日午前11時ごろ、オーストラリア・メルボルン郊外に乗用車ほどの大きさの銀色の円盤が上空を飛んでいるのをウェストオール高校の教師と生徒350人以上が目撃した。

 アンドリュー・グリーンウッド氏は高校の教師だった。彼がウェストオール高校で体育の授業をしていると、生徒がひどく興奮した様子で空飛ぶ円盤が見えると繰り返す。

 グリーンウッド氏が生徒が指さす方角を見ると、校庭の北東、電線の近くに何かが浮かんでいるのが見えた。

 それは円く、ある者は銀色といい、またある者はうっすら紫色だったと言う。皿のような形で、自動車くらいの大きさだった。またその物体のてっぺんからは金属製の杖のようなものが突き出していたと証言する者もいる。

 グリーンウッド氏が地元の新聞社に語ったところによれば、空飛ぶ円盤は降下して、校庭の南西の隅を横切って南東方向に飛んで行、農場の木々に隠れてしまった。

 その間約20分。学校の授業中とあって、目撃者は200人に達した。ある者は円盤が 1機だったといい、ある者は3機だったとも言っている。

 また、円盤が停泊していると、どこからか5機の未確認飛行物体が現れて、円盤を追いかけはじめた。それは目まぐるしく、衝突しないのが不思議なくらいだったが、やがてすべての飛行物体が飛び去ったと言われている。

◇ ◆ ◇

 ありがちなUFO事件かもしれないけれど、場所が学校で、大勢が目撃している事が印象に残ります。たしか情報ソースは英語版のウィキペディアだったと思います。

ウールピットの緑の子供たち

 12世紀頃、イギリスはサフォーク州ウールピット。

 ある時、地元の者が狼の落とし穴の様子を見に行くと、穴の中に子供が2人落ちていた。慌てて助けあげると、子供たちは緑色の皮膚に覆われ、何語かもわからない言葉で話した。2人は姉と弟で、着ている服もこのあたりでは見た事もないようなものだった。

 子供たちは地元の者にひきとられるが、なかなか食事をとろうとせず、生の空豆だけを喜んで食べた。それでもやがて普通の食事をとるようになり、そのうち皮膚も普通の色になったという。

 その後、弟は病気で死んでしまうが、姉は英語を覚え、自分たちの身の上を語り始めた。姉弟はセントマーティンという所からやってきた。そこでに住む人たちはみな、全身がの皮膚が緑色だった。セントマーティンには太陽の光がとどかず、いつも黄昏時のような薄明かりに照らされていた。そこからどうしてイギリスに迷い込んだかは、どうしても思い出せないという。

 やがて姉は大人になり、さる屋敷に使用人として奉公し、セントマーティンに帰ることなく一生を終えたという。

◇ ◆ ◇

 これもここ数年でみつけた不思議で気に入っている話です。機械翻訳で英語のサイトをいくつか読んでまとめました。なんのきっかけで見つけたのかはもう忘れました。参考にした英語のサイトも覚えてないです。今 Woolpit で検索したら英語のウィキペディアにもありました。
en.wikipedia.org

 ウィキペディアによると、この話は12世紀から13世紀に書かれた「Historia rerum Anglicarum」や「Chronicum Anglicanum」といった、イングランドの歴史について書かれた本に出てくるそうです。当時の民話であるか、歴史的出来事の誤った説明だと書かれています。

キケロの娘

八億年前から来たプリンセス - ネタ袋

 上の記事に書いた話は、どうやら元ネタがあるらしい。それは「キケロの娘」と言われるヨーロッパの伝説だが、神が出てくるような古いものではなく、15世紀に流布した、当時の都市伝説と呼べるようなものだ。

 以下はキケロの娘について当時の人が書き残したとされる文書である。英語の文献を機械翻訳にかけたものを平らな文章に描き直したものである。わたしは英語がろくにできないので、もとにした文献がどのくらい信用のおけるものかはわからない。単純に不思議な読み物として面白いのでメモしておく。


rogueclassicism.com

Antonio di Vaseli の日記より要約引用
 今日、1485年4月19日、カンパーニャ地方カサーレ・ロトンドの近く、サンタ・マリア・ノヴァの農場で千年前に埋葬された遺体が発見された。ローマのコンサバトーリ(行政長官)は棺を街に運ぶために人を派遣した。遺体はコンサバトーリ・パレスに展示され、市民や王侯貴族が見学した。その遺体は没薬やその他の高価な軟膏でできた膠着物質で覆われており、ハチの群れが寄ってきた。遺体は生きていた時と同じ姿で、美しい女性だった。もし膠着物質を洗い流せば遺体は黒く変色してしまうだろう。このように高価な埋葬方法は一般には有りえないものだから、おそらく裕福な貴族の娘であろう。


Daniele da San Sebastianoの手紙MCCCCLXXXV
 アッピア街道で行われた大理石の掘削で地下12フィートから大理石の墓が三つ掘り出された。ひとつは Terentia Tulliola (キケロの娘の名前)のもので、ほかは碑文がなかった。

 墓のひとつには若い娘が入っており、その全身は1インチ(2.5cmくらい)もの厚さの香りのあるペーストで覆われていた。そのペーストは没薬、乳香、アロエ、その他貴重な薬でできていると考えられた。

 ペーストを除去すると、顔が現れ、それはとても美しかったという。1500年前に埋葬されたものだが、亡くなったその日に横たえられたままだった。頭の上で古いスタイルで結われた髪の毛も、まるでその日その場で梳られたようだった。瞼は開け閉めできた。耳や鼻もよく保存され、曲げれば即座にもとに戻る。頬を押すと生きているように色づき離せばもとにもどった。ピンクの唇からは舌も見る事ができた。手足の関節もまだ弾力性を保っていた。その日2万人にも及ぶローマの男女がサンタ・マリア・ノヴァの驚異を見学した。

八億年前から来たプリンセス

 ネタ袋はもともと自分の日記に加えて不思議な話をメモしておくネタ帳のつもりで作ったウェブダイアリーでしたが、次第に日記ばっかりになり、そのうち放置して今日に至ります。

 はてなダイアリーが2019年2月いっぱいで終了になるとのことで、はてなブログに引っ越してきました。あまり更新するつもりはないのですが、記念に最近みつけて気に入っている話を書こうと思います。

◇ ◆ ◇

 1969年9月初旬、旧ソ連のケメロヴォ地方(Кемерово, Кемеровская область)のティスルスキー地区(Тисульский район)にあるルジャフチク村(Ржавчик)での事である。

 坑夫のカルナウホフ(Карнаухов)は、石炭床から長さ 2メートルほどの大理石の箱をみつけた。それは石棺のようなものだった。彼は仲間とともに棺を掘り出し、地上に運び出した。

 棺を調べてみると、蓋と棺の継ぎ目はパテでしっかりと塞がれている。パテは最初固かったが、太陽熱の影響からか、まもなく透明な液体になって流れ出した。

 恐れ知らずのある者がその液体を舐めてみたという。その場ではなんの異常もなかったが、1週間後に発狂し、半年ほど後に自宅の前で凍死したという。

 石棺を開けてみると、中にはピンクがかった青の透明な液体がいっぱいに入っていた。

 その中に人が入っている。細身で、30代くらいの女性。ヨーロッパ系の顔立ちで、大きく見開いた青い目。背丈は180センチメートルくらい。ダークブラウンの髪の毛は少し赤みがかりカールして腰にかかっている。胴体に添うように白くやわらかそうな腕があり、手には整った爪があった。彼女は透けるような白いドレスを着ている。それには様々な色の花の刺繍があった。下着はつけていなかった。枕元には 25 x 10cmくらいの携帯電話のような形の物体があった。女性はまるで眠っているようで、死んでいるようには見えなかった。

 棺は10〜15時間のあいだ村人に公開されていたが、軍や警察がやってきて村人を遠ざけた。棺に触れた村人たちは緊急の診断を受けることになった。

 棺をヘリで運ぼうとしたが、重過ぎたため、液体を酌み出した。すると中の女性の体が急に黒く変色した。再び液体を注ぐと元にもどったという。棺を封印していたパテは土壌と一緒に採集された。村人たちは解散するように言われた。ヘリは棺をのせてノヴォシビルスク(Новосибирск)に向かった。

 5日後に、ノボシビルスクから年老いた教授がルジャフチク村にやってきて、この件についての調査結果を講演した。この発見は世界を変えてしまうだろうと言った。教授によると、彼女は八億年前に埋葬されたということだ。それは恐竜の出現よりも前、古生代石炭紀のことである。また、彼女は遺伝的にロシア人と 100% の一貫性があったという。

 彼女のドレスは科学的に分析できなかった。今日の文明では作り出せない物質だったのだ。ピンクブルーの液体についても解明することはできなかったが、一部の構成物は古い品種の玉ネギとニンニクの成分だったという。携帯電話のような箱については、分析中で、何もわかっていないとの事である。

 教授が去って数日後にティスルキー(тисульской)地方の新聞が、ルジャフチク村の近くで考古遺物が発見されたと報じて、この事件は世に知られることとなる。

 警察は村人に扇動的な発言をやめるよう釘をさし、ひとまずは騒ぎはおさまるが、真実を追及しようと 1人の男が ソビエト共産党中央委員会に手紙を書いた。しかし彼は 1年後に突然死した。心不全だったとされている。また棺を掘り出した坑夫のうち 6人があいついで事故死したため、人々は沈黙を守るようになり、次第に世間から忘れられたと言う。


 残念ながらこの話は事実ではなさそうだ。2007年、新聞社の取材で石棺を掘り出したカルナウホフの妻がまだこの地で存命であることわかる。しかしそのような事実を彼女は記憶していなかった。 カルナウホフ本人は1984年ごろに白血病で亡くなったという。

 またカルナウホフとともに石棺を掘り出したとされるガルマノフ(Гарманов)という坑夫も近年まで生きており、そのようなことはなかったと証言している。

◇ ◆ ◇

 ロシア語の複数のサイトを機械翻訳にかけて読んでまとめました。

そろそろダイアリーをこっちに移行しようかと

 はてなダイアリーが2月いっぱいで終わるとのことで、移行せねばならんのです。テスト用に持ってるここに追加すればいいかなあ。追加って出来るんだっけ? 追加してもリダイレクトってかかるんだよね? 今更そういう面倒くさいことを考えたくないんですけど、まあしょうがない。

 まっさらなところに持って来たいのは山々ですが、なんだかんだと無料分は使いきっています(全部放置ですけど)。

 運営には、はてなブログの無料分を使い切ってる人はどうするんですかって、随分前にメールしました。「要望が多いので検討中、続報を待て」みたいな返事が来たままそれっきり。もしかすると移行しないでほっといたら無料ではてなブログになるのかもしれないけど、それだとドメイン名も選べないっていうし(選べなくていいけどさ、なんとなく)、手で移行するか、しょうがない。

 うーん、面倒くさいなあ。ここだけじゃなく、ジオシティーズとかもなくなっちゃうので始末しなきゃいけないし。ほとんどのコンテンツは自鯖にあるけど、トップページだけはジオに置いてあるから、少し直す必要があったりして、はあ、もう、しょうがないなあ。

 

  ……少しいじりはじめたけど、タイトルの文字色の変え方すらわからんし。えー、今更CSS書いたりするの、ダサいねそれは。もういいや、デザインは。ええと移行方法ね。まっさらなところには移してみたことあるんだけど、半年も前のことなのでもう忘れたわ。

 

 インポート中。記事の量によっては数日かかりますと。そりゃ絶対数日かかるわ、5000件近くあるから。ほとんどツイートのまとめで今は表示されない気がするけど、それらを選んで消すという無駄な作業にもはや精神が堪えられないので。

 

 ほんとに、まったく、しょうがないなあもう。面倒くさくて死にそう。

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 トップに固定していた記事。


 2015年10月10日の接続障害(MyDNSサーバダウンによる)はいつのまにか解消したようです。


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